声明「私たちはなぜ黙祷に反対するのか」(2014/03/11)

2014年3月11日、戦時下の現在を考える講座は、原発製造メーカーである日立製作所の所在する茨城県日立市にて「ヌードな日立パレード」というデモを行いました。原発反対はもちろんですが、同時に政府主催の「東日本大震災追悼式」への反対を訴えるためでした。
その際、デモ参加者に配布した声明を以下にかかげます。明日の「全国戦没者追悼式」を前に、<黙祷>について改めて思い起こし、考えを深めていくための材料として。

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                             私たちはなぜ黙祷に反対するのか

 「黙祷」と号令がかかる時、人はだれを思い浮かべているのでしょうか。身近な、顔を知っている誰かを思い浮かべている場合ももちろん多いでしょう。でも、今日黙祷をする全国の人の多くは直接に「黙祷」すべき亡くなった人を知っているのではなく、「犠牲者一般」としか呼べないような抽象的な何者かしか思い浮かばないのではないでしょうか。自分が本当に知っている相手なら、他人から命令されなくともさまざまな局面で、その亡き人のことがさまざまな思いとともに浮かんでくるでしょう。黙祷とは場所と時間を決めて、亡き人を知る人も知らない人も行う公的な儀式のことです。その時、実は黙祷をしている人の内面は問われて おらず、人が集まって黙祷をしているという形こそが重視されます。

 そのことからもわかる通り、黙祷は、個人が亡き人を思い浮かべる「祈り」や「弔い」とは異質な何かです。それは黙祷が、それを見る人がいなければ成立しないことからも明らかです。黙祷は他人が見ていることを前提としています。誰も見ていないところで一人、亡き人に思いいたしていることを黙祷とは呼びません。

 多くの人が集まり亡き人のことを思っている形を見せるのはなぜでしょうか。人が哀しんでいる姿は胸を打つものです。哀しみは他の感情と同じく 他人にも伝わります。多勢の人が哀しんでいる姿は、見る者の胸を打ちます。黙祷は、それを行っている人と見ている人の双方に強い一体感を抱かせます。また 同時に、黙祷する人たちは、なにより一つになった自分たちを見ている、と言えます。

 今日の政府主催「東日本大震災三周年追悼式」で行われる黙祷は、亡き人のことを思うと共に、被災地の復興のために行われます。けれども地震津波原発事 故によるさまざまな死の意味を問い、自分との関係を考えるのは、本来は私たち一人一人のはずです。他人にその姿勢を見せなければならないものではありません。その過程や結論がいわゆる「復興」へと絞り込まれていくものでもないでしょう。

 しかし政府主催の式典を中心に、あの時間に全国いたるところで黙祷が行われるのは、国の考える形での「復興」 に向けて国民を一丸とするためであり、それへの異議は許されません。それは個別の意思を持つ人間を大きな集団にまとめるための儀式であり、その儀式は個々の人々のためではなく、その集団化のためにこそあります。今日の式典で行われる黙祷は、国による「国民」への動員です。今日黙祷する人々は、黙祷という行 為によってこれまで以上に「国民」として統合されていきます。だから今日、追悼式典に「国民統合の象徴」が出席するのです。

 国はそこに生きる人々を、国の都合のためにさまざまに動員します。国による動員の行き着く果ては戦争です。黙祷と聞いて多くの人は靖国神社を、八月十五日 を思い浮かべるでしょう。靖国神社は戦争で死んだ兵士を、国のため、天皇のために戦って死んだと褒めたたえることで、次に死ぬ兵士を準備していました。靖国こそは、この国が戦争を行うための精神的支柱です。今日の式典を開始した前政権も、そしていまの政権はなおのこと、憲法を改正して戦争ができる国にすることを目指しています。多くの異議の声を無視した法律の成立を強行し、政府への反対・異論を許さない社会をまさしくいま作りつつあるこの国で、今日全国一斉に黙祷が行われるのは、本当は大変に恐ろしいことなのではないでしょうか。

 私たちは黙祷して動員されることを拒否します。
 私たちは今日の政府主催、天皇出席の追悼式典に反対し、黙祷に反対します。

                                                             2014年3月11日   戦時下の現在を考える講座