赤嶺容子さんの死

 2月7日付の常陽新聞に、赤嶺容子さんが5日亡くなったとの記事が載りました。赤嶺さんは旧・常陽新聞からの同新聞の記者でした。闘病しつつ記者生活を送ってらしたときいています。

 旧・常陽新聞は、茨城県南部の市民運動にとって力強い味方でもありました。その方面を主に担う一人であった赤嶺さんは、様々な運動を続けている地元の人々にごく近しく、とても信頼されていたのではないでしょうか。赤嶺さんの取材姿勢には「小さな叫びしか上げられない人の声をちゃんと掬い上げて伝えよう」という柱があった、と評する方もいます。

 新・常陽新聞が昨年スタートする時、記者勢揃いの紹介用全体写真を撮る際に、各自なにか格好をつけて撮ろうということになり、せーのでポーズを取った時、赤嶺さんは「秘密保護法はんたーい!」と声を上げながら拳を突きだした、と同僚の記者から聞きました。新・新聞になってからは、ご病気のゆえでしょう、彼女の記事を読めるのは間遠になっていましたが、数ヶ月前のある反戦集会の記事には、最後に強い光が走り抜けるような、ぐっとくる力が感じられて、ああ赤嶺さんはお元気だ、やっぱり赤嶺さんがいなくちゃだめだと思ったりしました。その死の報せは少なからぬ人にショックを与えています、私たちにも。亡くなったとは知らず、この15日の集会の案内状を送ってしまっていました…

 およそ私たちの催しは新聞に告知を載せてもらえることもほとんどありませんが(今回はまさに常陽新聞が載せて下さいました、ありがとうございます)、赤嶺さんは私たちの集会にまで参加し取材して下さったのです。赤嶺さんの記事を読んでもらいたく、下にそれを掲げたいと思います。2013年8月18日、常総市水海道にての集会+デモ『原発天皇制を考える八月』(お話:友常勉さん)についてのものです。友常さんのお話、参加者間の討論、そしてデモへの言及と、字数の制限に関わらず実に丁寧で詳細な記事で、友常さん含め皆でおどろきました。天皇制についてこんなにはっきり書いてくれる日刊紙の記者は他にもいるのでしょうか?この直後の8月末に旧新聞が廃刊になってしまったので、こんな記事を出すからだよなどと、知り合いと軽口を叩いたりもしました……書きながら気づいた、私たちは赤嶺さんにちゃんとお礼を伝えたのだったろうか。

          ~~~~~~~~~~~~~~~~

 

             天皇制については日常的に話す必要

             常総で講演会、議論も(『常陽新聞』2013年8月25日)

 講演会「原発天皇制を考える八月」が18日、常総市水海道天満町の常総生涯学習センターで開催された。戦時下の現在を考える講座主催。

 講師は、東京外国語大教員の友常勉さん。東日本大震災被災した東北地方が、交通インフラが未整備のままであり、宮城県に142あった漁港を拠点60港に再編し民営化が進むなど、「新自由主義の実験場」になっているのでは、とまず指摘。

 「新自由主義天皇制の結合」について、明治憲法下の天皇制に関する久野収の論の紹介から始めた。天皇の権威と権力について、国民大衆および軍隊には、それらが無限の絶対君主という「たてまえ」を教え込んだ。一方、将来の官僚となる大学・高等文官試験で初めて天皇は国政の最高機関という「申し合わせ」が示されて、国民大衆を指導するシステムが編み出された、と紹介。

 このシステムの破綻のプロセスや、明治14(1881)年の政変による英国モデルの議院内閣制論の挫折に触れ、明治立憲体制をめぐる穂積八束、都築馨六、美濃部達吉吉野作造らの解釈を説明した。また、久野が指摘した「たてまえ」の、形式化を促す力としての国家神道について考えた。現在の自民党による改憲案では、象徴としての天皇が「元首」になっていることにも言及した。

 参加者からは、「江戸時代には庶民は天皇を意識していなかっただろうに明治の何年かでころっと変わったのはなぜか。またあれだけのひどい戦争の後になお天皇制が残り、再び元首にしようという声に、議論がわき起こってこないのがふしぎ。庶民レベルで議論ができないのはよくないのでは」「中学生に聞くと、ああいう特権階級がいるのはおかしい、と言うが、大学に入る頃にはそう言わなくなる傾向がある」「天皇を悪く言わないで、みたいなことを友達に言われた。被災地訪問を、天皇個人の意思で行ってると思っているのかも」「王とは何か。どんな国にも必要か考えたい」などの声があがった。講演会の後、参加者有志は水海道駅まで約2キロを、「天皇制解体」などと訴えながらデモ行進した。(赤嶺容子)

f:id:inwartimeinibaraki:20150210094719j:plain

f:id:inwartimeinibaraki:20150210094718j:plain