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戦時下の現在を考える講座

つくば市を中心に活動する独立小グループ。2003 年イラク戦争への自衛隊派兵以降、日本は戦時下に入ったという認識を起点に、戦争と国民国家・ナショナリズムをできるかぎりラディカルに問おうともくろむ、茨城のささやかにしつこく出る杭。主に2 月と8 月に集会・デモを企画するほか、隔月読書会を開いてきましたが、今後は迫りくる<退位/X デー>を見すえて天皇制に的を絞った学習会を定期的に続行中。しかし、ほんとうに戦争が始まった。

安倍政権による相次ぐ死刑執行に対する抗議声明

戦時下の現在を考える講座 安倍政権による相次ぐ死刑執行に対する抗議声明

自由民主党第二次安倍政権による相次ぐ死刑執行に抗議する。安倍政権はこれ以上の死刑執行をやめ、殺人につながるすべての政策をやめよ。

 

  安倍政権による死刑執行が続いている。二〇一二年十二月の政権発足以来、この八月二十九日の二名に対する執行で計六回、十一人が死刑にされた。これは一九九二年の後藤田法相による死刑執行再開以来、「ベルトコンベアーのように」執行を望んだ鳩山法相に次ぐ多さである。〇六年の第一次安倍政権と合わせると二年半で二十一名にものぼる。この国の死刑執行に対しては国内からだけでなく国際的にも、国連人権委員会からの度重なる勧告をはじめとした批判の声が強まる中で、このペースは異様である。法務官僚のみならず政権自体にも死刑執行への強い執着がうかがえる。法務官僚も安倍も、国家による殺人権の行使、すすんで戦争ができない現状下では唯一の殺人権の行使である死刑執行を、何としても手放したくないのだろう。それは人命軽視の政策を取る政権からすれば当たり前のことなのだろうが、その姿勢を断じて認める訳にはいかない。

  安倍晋三とその政権は戦争のできる国を目指している。第一次安倍政権では教育基本法を改悪し、憲法改正手続きのための国民投票法を成立させ、今回は内閣での憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使容認という、立憲主義を無視した手法を用いて九条の無効化を謀った。昨年末に世論を無視して強行した特定秘密保護法の制定も、国内での異論を封じて戦争をするための準備である。 戦争とは敵味方を問わず大量の死者を出すことが前提の行動であり、人命を尊重していてはそもそも不可能である。そうした行動を行えるように法整備を続けている政権が人命を軽視するのは当然だろう。障碍者の自立を強引にうながし、また生活保護の適用を今以上に厳しくして、社会的弱者をも資本の論理に従わせようとすることは、そうした制度・法律がなければ生きていくことが困難な ―だからこそそれらは設置されているのだ― 人々を、生きることが不可能な方向へ押しやるものである。世界一企業が活動しやすい国を目指すということは、世界一労働者が搾取され、やはり生きていくことが困難になる国を目指すということである。安部政権にとって「国民」とは、数字として把握される「物」=「人的資源」である。女性の活用を大きく謳っているが、それも実のところは子どもを生み育てさせることによって「国民」という資源を増やした上、子どもとかかわる以外の時間は労働力として活用する、ということでしかない。戦争をするためには人命は軽視され人権は無視される。人は「物」として活用される。たとえ戦争を始める理由が国民の生命・財産を守る、であっても、実際に戦争が実行されるにあたっては「国民の生命・財産」は戦争に必要な国の資産としてカウントされ、利用される。それはこの国の歴史を顧みれば明らかだ。

  こうした一連の政策の中で、最も生命を軽んじているものが死刑執行である。判決の原因となった犯罪は既に行われているゆえ、失われた生命は取り戻しようがないが、その結果として公然と行われる殺人は未然に防ぐことができるものだ。冤罪の可能性がほんの少しあるだけで死刑執行は行ってはならない。執行してしまえばそれが取り返しのつかない行為になりうることは誰にでもわかる。だが仮に裁判にまったく不備がなく、冤罪の可能性がなかったとしても、人を殺すことは単に殺人であり、国家がやっているのでその責任が問われないにすぎない。戦争も死刑も、国家による殺人権の行使である。しかし、そのようなグロテスクなものを断じて認めてはならない。人の命は官僚たちが増減をカウントできるような「資源」ではない。国家にも誰にも人を殺せる権利などないのだ。

  自由民主党第二次安倍政権による相次ぐ死刑執行に抗議する。安倍政権はこれ以上の死刑執行をやめ、殺人につながるすべての政策をやめよ。

 

2014年9月20日 戦時下の現在を考える講座